状況
Pさんは、夫と数年前に結婚しました。
結婚後、夫は体調不良に陥り、生活保護を受給していました。
その後、夫はなくなったのですが、夫の死後1年以上が経過してから夫の債権者から夫の借金数百万円を返済するよう求める通知書が届きました。
通知書の記載から、夫が結婚する10年以上前に作った借金が返済されておらず未払として残っていることが分かりました。
Pさんは、夫が亡くなって1年以上経過しているため、もう相続放棄できないのではないかと考えましたが、藁にもすがる思いで当事務所にご相談されました。
弁護士の活動
1 ご相談内容の聞き取りと法的状況の分析
まず、Pさんがご相談に至った経緯や、夫の生前の状況、借金が発酵した経緯、Pさんが借金の存在を知り得なかった具体的な事情などを丁寧に聴取いたしました。
相続放棄の期限(熟慮期間)は原則として「自己のために相続の開始があったことを知った時から3か月以内」(民法915条1項)ですが、Pさんは夫の死亡の事実を1年以上前に認識していました。
しかし、詳しくお話を伺う中で、Pさんが夫の借金の存在を最近まで知らなかったこと、そしてそう信じることに無理からぬ事情がある可能性が見えてきました。
そこで、弁護士は相続放棄の熟慮期間の起算点に関する例外規定の適用を視野に入れ、解決の可能性を探りました。
2 資料収集
熟慮期間の例外規定の適用を受けるためには、Pさんが「相続財産の不存在を信じ、かつ、そう信じるについて相当な理由があった」ことを客観的な証拠で示す必要があります。
弁護士は、Pさんに協力いただきながら、以下の様な資料の収集・検討を行いました。
・夫が生活保護を受給していたことを証明する公的書類(例:生活保護決定通知書の写しなど):夫にめぼしい財産がなかったことを示す一資料
・債権者からの通知書:契約日や契約時の住所がPさんとの婚姻前の情報であること、Pさんが関知しえない時期・状況の借金であることを示す資料
・その他、Pさんと夫の生活状況から、Pさんが夫の借金を知り得なかったことを補強する情報(例:家計管理の状況、夫が自身の負債について話していなかったことなど)
これらの資料収集と並行し、熟慮期間の例外に関する法的な論点整理を行いました。この例外規定の詳細は、次の【ポイント】で詳しく解説します。
3 相続放棄申述
収集した証拠と法的検討に基づき、弁護士は以下の点を具体的に主張する相続放棄申述書を作成し、家庭裁判所に提出しました。
・Pさんは、夫が生活保護を受給しており、めぼしい財産がないと認識していたこと。
・問題となっている借金はPさんとの婚姻前のものであり、Pさんがその存在を知る機会がなかったこと。
・Pさんは、債権者からの通知により初めて夫の借金の存在を具体的に認識したのであり、その認識時から3か月以内であること。
その結果、夫が亡くなって1年以上経過していたものの、Pさんの相続放棄は無事に家庭裁判所に受理されました。
関連記事:亡くなった親族の借金…債権者からの通知で相続放棄の期限はスタートする?
ポイント
1 【重要ポイント】熟慮期間の起算点の「例外」とは?
熟慮期間の起算点は、「自己のために相続の開始があったことを知った時」(民法915条1項)というのが原則です。
ただし、以下の要件をいずれも満たす場合には、「相続人が相続財産の全部又は一部の存在を認識した時又は通常これを認識しうべき時」から熟慮期間が起算される、という例外が判例で認められています(最高裁昭和59年4月27日第二小法廷判決・民集 38巻6号698頁)。
①被相続人に相続財産が全く存在しないと信じたこと。
②被相続人の生活歴、被相続人と相続人との間の交際状態その他諸般の状況からみて当該相続人に対し相続財産の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があって、相続人においてこのように信じるについて相当な理由があること。
今回のケースでは、夫が生活保護を受給していたという事実からPさんは夫にプラスの財産がないと信じていたこと、問題の借金が婚姻前のもので契約住所も異なり、夫が婚姻後に借金を返済した形跡もなかったことなどから、Pさんは夫にマイナスの財産(借金)もないと信じていたことを具体的に主張しました。
2 熟慮期間の例外適用のための資料収集
熟慮期間の起算点の例外を適用してもらうためには、「相続財産がないと信じていたこと」および「そう信じたことに相当な理由があったこと」を客観的な資料で裏付ける必要があります。
とくに、同居中の夫婦間においては、通常、配偶者の財産状況(借金の有無や金額など)をある程度把握しているはずである、と裁判所にみられがちです。
そのため、「知らなかった」と主張するだけでなく、なぜ知ることができなかったのか、その理由を説得的に示す資料の収集が極めて重要になります。
今回のケースでは、生活保護に関する書類や債権者からの通知書等により、以下の事実関係を明らかにすることができたことで、Pさんが夫に財産が全くないと信じていたこと及びそのように信じる相当な理由があることを裏付けることができました。
・夫が生活保護を受給中であったこと(プラスの財産がないと信じたことの裏付け)
・夫の借金がPさんとの婚姻前のものであったこと(マイナスの財産がないと信じたことの裏付け)
・夫は生活保護受給中であり、Pさんの知る限り借金の返済をしていなかったこと(マイナスの財産がないと信じたことの裏付け)
・債権者が把握している契約時の住所が、Pさんとの婚姻後の住所とは異なっていたこと(マイナスの財産がないと信じたことの裏付け)
3 注意点:相続放棄の「受理」=相続放棄が有効であるわけではない
注意が必要なのは、相続放棄が「受理」されたからといって相続放棄の効力が確定するわけではないという点です。
相続放棄の「受理」は、要式行為である相続放棄のあったことを公証する行為であり、相続放棄が有効であることを確定する裁判ではないとされています。
そのため、相続放棄の申述が家庭裁判所に受理されたとしても、相続放棄が有効であることが確定するわけではなく、債権者が事後的に訴訟で相続放棄の有効性を争ってくる可能性があります。
そこで、相続放棄の手続きのために収集した資料については、受理後も大切に保管しておき、万が一、債権者から相続放棄の有効性を争われた場合に備えておくことが重要です。
相続放棄が受理された後に相続放棄が無効とされるリスクについては、以下の関連記事をご覧ください。
関連記事:相続放棄は受理後でも無効になる?~「受理」の意味と注意点~
4 消滅時効
そもそも今回のケースでは、問題となった夫の借金は結婚する10年以上前に出来たものでした。
そのため、夫の借金について消滅時効が完成している可能性もありました。
もっとも、夫にはその他にも借金等がある可能性も否定できません。
そこで、まずは包括的に債務の承継を免れることができる相続放棄の手続きを優先し、その上で、万が一債権者が相続放棄の有効性を争ってきた場合には、次善の策として消滅時効を援用(主張)するという対応が合理的と判断しました。
債務の承認(権利の承認)には要注意
消滅時効が完成している場合でも、債権者に対して不用意に支払いの約束をしたり、借金の一部を支払ったり、支払猶予を願い出たりすると、時効を援用できなくなる可能性があります。
そこで、債権者から連絡があった場合は、安易な対応は避け、まずは弁護士にご相談いただくことが重要です。
※掲載中の解決事例は、当事務所で御依頼をお受けした事例及び当事務所に所属する弁護士が過去に取り扱った事例について、案件や依頼者様の特定ができないように内容を編集したものです。